代表取締役
もりゆきひさ
- 1967年
- 三重県生まれ
早稲田大学在学中、フランスに留学、後に法政大学文学部大学院哲学科卒業。
- 1996年
- 大学院卒業後、インターネット黎明期に気鋭のWEBコンテンツ企画制作会社に入社。
その後、SOHOブームに便乗し独立「Unit Copula」を設立。哲学的な視点からWEBサイトを捉える独特なデザイン企画提案をおこない、大手不動産会社、放送局をはじめ数多くのWEBサイトの構築を手がける。
- 2000年
- 「有限会社コプラ」代表取締役に就任。WEB顧客管理、メールマーケティングなどの新たなWEBビジネスのプランニングも開始。
- 2002年
- 新たなコンテンツ制作集団の旗揚げを標榜しコプラを脱退、各分野から個性的な人材を招聘し、有限会社ハビタスを設立。
企業WEBサイトのコンサルティングを中心に活動する一方、WEB制作にとどまらず、特異な?人脈を活かして、放送局、金融機関、官公庁等のWEB関連ビジネスのコンサルティングでも活躍。「哲学的WEBサイト構築」(そんなんあるのか!?本人談)を標榜した独自の企画提案が話題をよんでいる。
- 2006年
- 早稲田大学交域哲学研究所客員研究員となり、本業のWEBビジネスの傍ら、たまには哲学者にもなり、さらに活躍の範囲を広げている。なんとか複数の人生を生きようと努力している。
本人による略歴
小学校、中学校時代を神童と崇められ、世界をすべて理解したと思った。
- 高校時代:
- 幼き神童は、多少世界の広さを認め始め、お笑い演芸、ロックミュージック、そして思想の奥深さを多少なりとも知る。
- 浪人時代:
- 大学受験失敗により、2年間名古屋のK塾に通う。神童はただの凡人であることを認めざるを得なくなる。
住んでいたアパートの「共同トイレが落ちる」という珍事が発生する。電話もなくテレビもない。友人から電報が届く「明日ノート返してください」。
一枚のコインを握りしめて、寒い深夜のドーナツ屋で泣く。哲学を意識する。
「哲学とはつねに新しい概念を創造することである」
ジル・ドゥルーズ
- 大学生の頃:
- 東京の大学は変人揃いであった。さらに自分は凡庸であると認めざるを得なくなる。
時はバブルまっさかりで、さかりのついた調子のいい大学生たちについていけず、アングラの道に入る。そこは同じようにバブルの時代に乗れない連中がたくさんいることに気づく。
(のちに彼らは「だめ連」と称し、一部でウケたムーブメントとなる)
と、同時に激しい躁鬱を経験する。
自分は世界で最も孤独だと傲慢に感じる。鏡を眺めながら酒を飲む。アスピリン手放せず。
「ボクは20歳だった。それが人の人生の最も美しい季節だとは誰にも言わせまい」
ポール・ニザン
- パリ遊学の頃:
- 世界は広かった。ヨーロッパ文化の深さを知る。
ある人物との運命的な出会いがあり、随分世話になる。そのおかげで孤独に陥ることなく、極めて文学的かつ貴族的な時間を過ごし、
そのおかげで、倫敦に留学した夏目漱石のように胃潰瘍になることもなく、大いに見聞を広め、ハメもはずす。
しかし、パリのある日の朝、めざめると耳が赤く腫れ上がり2倍の大きさになっていたのには驚いた。未だに原因不明である。
「ミラボー橋の下をセーヌは流れ…」
アポリネール
- 大学院浪人中:
- 日本で一番貧乏だと大げさに思う。
大学卒業論文を書いている途中、ワープロで半年かかって書いたデータを締め切り一週間前にすべて喪失する。それ以後、デジタルを信用できなくなる。
その後大学院浪人となり、仕送りは断たれ、毎日アルバイトと図書館通い、そして売れ残りメロンパン6個100円の日々。
救いは、文学と淡い恋心であった。
「巷に雨の降る如く 我の心に涙ふる。かくも心に滲み入る。この悲しみは何ならん?」
ポール・ヴェルレーヌ
- 大学院の頃:
- 激動の精神状態。
天国と地獄を味わう。
一年は最も充実した哲学者への道であり、もう一年はいばらのようでありました。(中原中也風)
修士論文は高い評価を受け(絶賛!ホントだよ)、指導教官に博士課程への進学を勧められるものの、哲学者への道を断念する。
(指導教官は翌年退職。いかなくてよかったと思う)
人間惜しまれるうちが花なのよ…と思いつつも、要するに挫折。とはいえ当時、精神状態が錯乱をきたしつつあり、このままでは藤村操化するという恐怖を味わう。
しかしそれほど思い詰める性格ではなかった。
「曰く、不可解!」
藤村操
- サラリーマン時代:
- 職務経験ゼロの30歳前。
雇ってくれるところなどどこもなく、教授から話のあったITベンチャーになにひとつ希望を抱くことなく就職。入社当日から辞めることを考えるが、他にやることもなく、いく場所もなく、話せる友もなく、カネもない。
まったく前向きにはなれず、ラグビーのように前に走っているがパスはうしろに出す、あるいはエビのように前は向いているが常に後に下がる日々。当然のごとく1年で辞める。
「今日の仕事は辛かったぁ…、あとは焼酎あおるだけ」
岡林信康
- 独立の時代:
- 行き場がないのでしょうがなく会社のまねごとを始める。
仕事のパートナーは2人。とりあえず、自分たちが生きていくための仕事をさがす。「ヨイトマケのうた」が頭をめぐる日々。
最先端だが最貧困のITベンチャーの共同代表となる。
しかし、折しも時代はSOHO&ITブームが始まりつつある頃で、なんのビジネスの知識もない上に、その後のネットバブルの波乗りに乗ることもできず、生かぬよう、死なぬようだらしなく生きる。社会の雰囲気に助けられなんとか生き延びる。
また、世の中捨てたものではなく、なんの知識も経験もない自分たちに親切にも仕事を出してくれる人々がいた。
彼らの多くが、その後出世したかどうかは知らない。だが感謝している。
パートナーの二人には随分助けられるが、方向性の違いからそれぞれ別の道を歩む。
この頃、なぜか極端に「和傾化」し、寄席通い、盆栽いじりを趣味とする。
そのユニットは5年ほどで解散。
「あーあ悲しき我が心…勉強になりましたぁ」
クレージーキャッツ
- 会社経営の時代:
- 自ら望んだわけではないが、人が集まってくることにより会社経営者として自他共に認めざるを得なくなる。と、同時に少しずつ社会との折り合いを付けるようと保守化する。
2002年に有限会社ハビタス設立。
世の中ネットバブルと称される時期に立ち会うが、まったくそれがどういう意味かわからず、WEB関連会社であるにも関わらず例によって時代の波に乗り遅れる。
しかし、逆に「骨太」であると一部メディアから評価される。このとき「ものはいいよう」であると悟る。しかし、「骨太」ネタはそれほど続かないことにも気づく。
2006年、なぜか再び哲学の友から誘いを受け、早稲田大学交域哲学研究所客員研究員となる。10年のブランクをはねのけられるとカッコいいのだが、まったく議論についていけず、足を引っ張らないように、隅の方にいるようにしているが、二次会では活躍中。
そんなこんな、常に反省と自己批判を繰り返しながら現在に至る。
そういえば修士論文は「反省概念」について書いたのであった…。
「カッコもつけられず、素直になった自分のことは嫌いで、適度に片意地張って生きてます。」というような結果的凡庸な人。