#349 第1回:詩がない世界の幕開け 〜芸術家が広告から去り、アルゴリズムが支配した日〜
『詩がない(しがない)世界に、愛(AI)の言葉を』
第1回:詩がない世界の幕開け 〜芸術家が広告から去り、アルゴリズムが支配した日〜
先日、IT系のニュースサイトで少し興味深い記事を目にしました。Googleが6月にポリシーを変更し、ブラウザの「戻る」ボタンを押した際に広告を表示させたり、別のページに遷移させたりする行為を「スパム(迷惑行為)」として扱うようになる、というものです。ま、当然と言えば当然で、明らかに迷惑ですよね。概してネット上の広告は邪魔なものが多い。
皆さんも一度は経験があるのではないでしょうか。
検索結果からあるページを開き、「探している情報と違うな」と思って戻ろうとした瞬間、予期せぬ広告画面に閉じ込められてしまう、あの不快な体験です。 ユーザーの利便性を完全に無視し、無理やり自社のサイトや広告に監禁するこの姑息な手法は、現在のデジタルマーケティングが抱える病理を象徴しているように思えてなりません。
自分のサイトの数字(アクセス数や滞在時間)を少しでも増やすために、他者の時間や場所を強引に奪い取る。 17世紀の哲学者パスカルは、自らの利益のために他者の領域を侵すことを「簒奪(さんだつ)」と呼びました。現代のインターネットは、まさにこの数字を求める簒奪者たちによって、なんとも息苦しい空間になってしまったと言わざるを得ません。
なぜ、Webの世界はこれほどまでに「しがない(詩がない)」、数字の奪い合いの場になってしまったのでしょうか。少しだけ、時計の針を戻してみたいと思います。
1980年代から90年代にかけて、ビジネスとクリエイティブ(芸術)は、今よりもずっと近くて幸福な関係にあったように思います。たとえば、サントリーの宣伝部が発信する粋なコピーや、写真家の荒木経惟(アラーキー)氏が電通で広告写真を撮っていた時代。Parcoや西武グループがコピーでしのぎを削った時代。企業は自社の商品を単に「機能」として売るのではなく、独自の美学や哲学を一つの「詩(ポエジー)」として世の中に表現していました。
初期のインターネットにも、それと同じようなおおらかさがありました。 企業がWebサイトを作る理由は「集客のため」だけではなく、社長の個人的な哲学をとうとうと綴ったり、純粋に美しいと思える看板を掲げたり、自社のセンスの良さはこういうところにあるんだとばかりに、様々な情報(ネタ)を披露したりと、それぞれが勝手に、自由な意味づけを行っていました。
そこには、正解のない「多様性」というインターネット本来の夢があり、可能性の中心があったのです。
しかし、その愉しく、クリエイティブで、時にはマヌケですらあったような牧歌的な世界を根底から壊すものが登場します。それこそが、真っ白な画面に検索窓だけが置かれた、圧倒的に便利な「検索エンジン」でした。
インターネットに「検索順位」というランキング(順列)が持ち込まれ、クリック率(CTR)やアクセス数といった「測定可能性」が絶対的な神として君臨するようになります。
何人が訪れ、何人がクリックしたか。すべてが数字で可視化されるようになった結果、Webサイトは「集客ツール」という単一のイデオロギー(モノカルチャー)に完全に支配されました。
アルゴリズムによって評価されるため「誰にでもわかる無難な説明文」が推奨され、企業の割り切れない想いや個性といった「詩(クリエイティブ)」は、ノイズとして徹底的に排除されていったのです。
数字を積み上げるためにアルゴリズムの機嫌を取り、少しでも滞在時間を延ばすために「戻る」ボタンの挙動まで操作する。 経済学者のヤニス・バルファキスは、現代のこの構造を『テクノ封建制』と呼びました。巨大なプラットフォーマーという「領主」が作ったルールと土地の上で、企業は必死に数字という年貢を納めるために踊らされる「農奴」になってしまった、という指摘です。
私たちが圧倒的な利便性と引き換えに手に入れたのは、芸術家が去り、アルゴリズムが支配する「詩がない世界」でした。 次回は、この「Webサイト=集客ツール」という常識が、いかにして現代の中小企業のWebを均質化し、無意味なものにしてしまったのか。その残酷な構造をさらに深く解剖してみたいと思います。
(つづく)
