#569 承認欲求の果てに… 集客イデオロギーの現象学

Sep 26, 2026By habitus
habitus

The End of the Attention Economy

かつて世間を騒がせた「迷惑系YouTuber」と呼ばれる人々がいました。
最近ではあそこまで露骨なものは減ったようですが、代わりに「私人逮捕系」とか称して正義を振りかざして他者を晒し上げたり、あるいはフェイクニュースを平然と撒き散らしたりするような、形を変えたアカウントが後を絶たないそうです。 

彼らの行動を見るたびに、多くの人は「なぜそこまで愚劣なことができるのか」と呆れるでしょうし、世の識者たちはもっともらしく「広告収入を目的としたモラルの崩壊だ」などと経済的な評価を下しているようです。 

しかし、事の本質は単なるお金儲けの枠には収まらないように思うのです。
彼らを深く突き動かしているのは、「数字(再生数やいいね)を集め、誰かに認知されなければ、自分がこの世界に存在していることにならない」という、極めて現代的な認知欲求ではないでしょうか。
どんな手段を使ってでも、どれだけ人に嫌がられても、「見られること」で自分の存在証明(実存)を保とうとする。これは、数字という指標でしか自らの輪郭を確認できなくなってしまった、構造的な虚無だと言えなくもなさそうです。 

私たちは彼らを「常識のない一部の人たち」と切り捨て、自分たちとは無関係な別世界の出来事だと思っています。 

しかし、本当にそうでしょうか。 

企業を蝕む「集客モデル」という同質の構造

翻って、企業のWebサイトやデジタルマーケティングの現場を見てみましょう。 

「今月のPV(アクセス数)が目標に達していない」 
「もっと広く読まれるようなコンテンツを量産しなければ」
「検索順位を上げるために、とにかくキーワードを散りばめよう」 

真面目で誠実なはずの中小企業までもが、こうした「数」の呪縛に囚われ、アクセス解析のグラフに一喜一憂しているように見えます。 

振り返れば、過去10年近くにわたり、Web業界では検索エンジンのアルゴリズムの隙を突く「SEO」という名のハックが公然と行われてきました。Googleが低品質な記事を排除しようとパンダアップデートなどのシステム修正を繰り返す、終わりのないイタチごっこの歴史です。
その過程で、デジタルマーケティング業界は「Webサイトは数を集めるための集客ツールである」という強固な思い込みを社会に植え付けてきました。
私たちはいつしか、この無意識の前提(イデオロギー)に飲み込まれ、「アクセス数がなければ、自社の価値が存在していないのではないか」という焦りと不安に駆られているように思うのです。 

不特定多数から「数」を集めるためには、誰にでもわかる無難な言葉を使わなければなりません。
検索窓によく打ち込まれる一般的な単語を選び、検索エンジンに拾ってもらうための「説明的なキーワード」に自らを寄せていく必要があるからです。
その結果、企業独自の「他社と異なる価値や体温(グレーのグラデーション)」は削ぎ落とされ、どこを見ても同じような説明文ばかりが並ぶ、誰の記憶にも残らないWebサイトが出来上がっていきます。 

いったい誰に「承認」されたいのか

冷静に考えてみてください。本来、BtoBの製造業や地域に根ざしたクリニックが、不特定多数の「いいね」や何万ものアクセスを集める必要などおそらくどこにもないはずです。目の前の、自社の哲学や価値を本当に必要としてくれている顧客にだけ、深く、正確に刺さればそれで商売は成り立つはずです。 

そういえば、かつて「ローカルSEO」という言葉がありました。見知らぬ無数の人々ではなく、自分たちの商圏や特定の領域において、確実に信頼され存在を示すという真っ当な思想です。アメリカなどではこの考え方が非常に重視されていた印象があります。 

それなのに、なぜ私たちはこれほどまでに「数」を求めてしまうのか。
顔も名前も知らない何万もの人々にまで、いったい何を承認されたいのでしょうか。 

それはもはや経済的な合理性(売上のため)を超えた、いわゆる「アテンション・エコノミー(関心を惹くこと自体が目的化する経済)」に巻き込まれているからではないでしょうか。 実のところ、PV至上主義に陥り、意味のないコンテンツを量産し続けている企業のメンタリティは、あの迷惑系YouTuberたちが「数字」を求めて暴走している構造と、根源的には同じ土俵に立ってしまっているのではないか。そう思えてならないのです。
実のところ、PV至上主義に陥り、意味のないコンテンツを量産し続けている企業のメンタリティは、あの迷惑系YouTuberたちが「数字」を求めて暴走している構造と、根源的には同じ土俵に立ってしまっているのではないか。そう思えてならないのです。 

「自覚する」ことからのスタート

「イデオロギー(世の中全体の思い込み)から目を覚まし、真実を見よう」と言うのは簡単ですが、現実の社会において、特定のイデオロギーから完全に抜け出すことなど不可能です。
私たちは常に、何らかの時代精神や常識の枠組みの中でしか生きられません。 

だからこそ、私たちにできることは、「自分たちが今、『数を集めなければ存在できない』という極めて不自然な思い込みに囚われているのだ」と、客観的に自覚することくらいなのかもしれません。哲学の世界で「現象学的還元」と呼ばれるような、判断を一度停止して物事の成り立ちを見つめ直す、静かな視点の転換です。 

大上段に「企業倫理」を振りかざすつもりはありません。
ただ、自問してみてほしいのです。 

過激な動画配信者たちと同じように、「認知されたい」「数を集めたい」という欲求に振り回され、アルゴリズムの機嫌を取るために自社の本来の言葉(実存)をすり減らしていく。実社会で誠実にものづくりやサービスに向き合ってきた企業として、その同じ土俵に立ってしまっていることに、ふと違和感を覚えないでしょうか。 

「数」のゲームを降り、実存を登記する

AI検索が本格的に普及し始めている今、この無意味な数のゲーム(集客モデル)は構造的に終焉を迎えようとしています。AIという慎重なシステムは、PVの多さや表面的な「いいね」の数など読みません。彼らが推論の土台とするのは、揺るぎない「客観的な事実(Fact)」だけです。 

だからこそ、私たちはもう、顔の見えない不特定多数の顔色をうかがうのをやめるべきだと思うのです。 

「ウチは単なる〇〇ではない」という「Not」の境界線を毅然と引き、自社が何者であるかという事実を、機械が読み取れる世界標準のフォーマット(構造化データなど)を用いて裏側に冷徹に『デジタル登記』する。 そして、その強固な土台があるからこそ、表側のWebサイトでは、数字を稼ぐための空虚なキーワードを捨て、人間のための豊かで誇り高い言葉を取り戻すことができる。 

数を集めるだけの不毛な土俵から、そっと降りること。 それこそが、見えない思い込みの呪縛から企業の尊厳を守り抜き、AI時代に自社の確かな「実存」を残すための、ささやかで誠実な戦い方なのだと思います。